ふじ子先生半生記
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■第1回:3歳で川に溺れ、「奇跡の生還」
私は8人兄弟の二子として、富士山の裾野――御殿場市神山で生まれました。勝又家としては初めての女の子とあって、両親はたいそう喜び、
「どうか、富士山のように心のきれいな子になりますように」
という願いを込め、父親が「ふじ子」と名づけたそうです。
名前をひら仮名にしたのは、
「簡単に名前が書けるように」
と考えてのことであったと、これは後になって母親から聞かされました。 実家は農家で村一番の旧家。お墓が5基もありました。
私の神力を父親が見抜いたのは、私が3歳のときでした。
あれは確か夏前――菖蒲がとてもきれいだった記憶があるので、5月か6月ころのことだった思います。兄が私を子守しながら川を渡ろうとして、誤って私を川に落としてしまったのです。
「助けてぇ! ふじ子が溺れる!」
兄は狂ったように泣き叫びながら、川に沿って走ったそうです。もしこのとき、下流でお婆さんが洗濯をしていなかったなら、いまの私はなかったでしよう。
兄の叫び声に事態を悟ったお婆さんは、我が身の危険を顧みず、夢中で私を助けあげてくださったのです。
兄によれば、私のお腹は、水を飲んでふくれあがっていたそうです。お婆さんはすぐに水を吐かせ、病院に連れて行ってくれたのでした。
実はこのとき、信じられないようなことが起こっているのです。
何と、私の父親が病院に駆けつけてきたのです。私が川に落ちたことも、病院に運び込まれたことも、父親には誰も知らせていないにもかかわらず、
「ふじ子が溺れた!」
と、血相を変えて病院に飛びこんできたのだと、後になって私は兄から聞かされました。
なぜ、父親は私の事故を知ったのでしょう。
これも後になって、父親が私に語ってくれました。
「山で畑仕事をしていたら、ピカッと光るやふじ子の顔が見えて、「お父ちゃん、助けて!」と叫んだんだ。「川に落ちた、溺れる、助けて!」と……。それで鍬を放り出し、夢中になって病院へ走ったんだが、ふじ子がどうしてその病院に運ばれているとわかったのか……。そのことは、いまも不思議に思っているんだ」
そして、病院に駆けつけた父親は、意識不明でベッドに横たわる私のそばに跪(ひざまづ)き、
(神さま、ふじ子をお助けください)
と一心に祈ったそうです。
すると、どうでしょう。
父親が祈ると同時に、私は意識を回復したのでした。
もちろん私は、川に落ちて以後の記憶はありません。
ふと気がつくと、山で畑仕事をしているはずの父の腕の中にいました。
「お父ちゃん、どうしたの?」
キョトンとして言ったそうです。
このときの体験から、父親は生前、
「不思議なことがあるものだ。ふじ子には神力があるに違いない」
と、何度も何度も語ったものです。幼子の私には、父親の言っている意味はよく理解できませんでしたが、私が「神」という存在を漠然と意識したのは、このときが最初でした。
(次回へ続く)
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私が、火の玉を見るようになるのは、川で溺れ「奇跡の生還」をした翌年ですから、4歳のころです。
外で友達と遊んで、夕暮れの道を歩いて家に帰っていると、
(あっ、火の玉が!)
驚き、心臓が止まりそうになりました。
棒立ちになった私の目の前を、真っ赤な「火の玉」が飛んで行って、Aさん宅の屋根のところに止まったのです。
なにしろ4歳の子供です。もう恐くて恐くて、家に走って帰ったのを覚えています。
Aさん宅で死人が出るのは、私がAさん宅の屋根に火の玉が止まるのを見て、一週間ほどしてからのことでした。
(まさか火の玉が……)
私はとんでもないものを見たのではないか――子供心に、言い様のない不安に襲われました。
それからというもの、よく火の玉が見えてしまうのです。
想像してみてください。4歳、5歳の女の子が、わけもなく火の玉を見させられるのです。これがどんなに恐いことであるか、おわかりになると思います。
あるときなど、近所の家に遊びに行った帰り、お茶畑の脇の道を歩いていると、ものすごく大きな火の玉が飛んでいました。
「わーっ! 助けて!」
私は叫びながら、いま出てきたばかりの近所の家に逃げ帰りました。
「どうしたんだい?」
「火の玉が飛んでたの」
「そんなバカな」
叔父さんは一笑にふしましたが、恐くて、ひとりでは帰れないと足をすくませる私をかわいそうに思って、家まで送ってくれたことがあります。
私が恐怖したのは、ただ火の玉が見えるということだけではありません。
私が火の玉を見て、その火の玉が止まった家で、必ず人が亡くなることでした。
しかも、小学校にあがるころになると、画相が見えるようになるのです。
近所のお婆さんが亡くなる画相が見え、
「三日後」
という白い文字が画相に入ります。
すると、かっきり三日後、そのお婆さんが急死したのです。
(私はどうかしているんじゃないか……)
震えるほどの恐怖におののいたのでした。
(次回へ続く)
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守護霊が、いつもそばにいて教えてくる――そんな感じを私は漠然と意識していました。
この背後霊は、後になって私の兄であることを知ります。私は勝又家の二番目の子供ですが、実は、生まれた直後に亡くなった「姉」がいたのです。その姉が、守護霊として私を守ってくれていたのですが、当時、小学生の私にそんなことがわかるわけがありません。
七色の、虹のようにような光が見えるようになるのもこのころです。
(わあ、きれい)
と、これは恐怖ではなく、とても楽しいことでした。
実は、この七色り虹こそ、神の啓示であったのですが、その意味を知るのは、「神の使い」になるときまで待たなくてはなりません。
さて、火の玉を見たり、死期の画相が入るだけでなく、病気まで見えるようになっていきます。
(Bさん宅の叔父さんは、肝臓の病気になる)
ハッキリとわかるのです。
誰が、いつ、どんな病気になるか、画相が全部入ってくるのです。
不安に耐えきれなくなった私は、母親にこのことを打ち明けました。
火の玉のこと、死期や病気の画相が入ること、そして、それらがすべて現実のものになったしまうこと……。
すると、母親はやさしく言いました。
「ふじ子、おまえひとりの胸にしまっておきなさい」
このひとことに、私はどれだけ救われたことでしよう。
これが、ふつうの母親であったなら、
「なにをバカなことを言ってるんですか」
と一笑にふすか、
「大人をかつぐもんじゃありません」
と叱られるか、どっちかでしょう。
そうであったなら、その後の私の人生も変わっていはずです。
なぜなら、叱られても、画相は現実に見えるからです。
(自分は気が狂ったんじゃないか?)
と、責めたことでしょう。
と同時に、神界から遠ざろうとしたと思います。
そうであったなら、大神教として、私はあったかどうか……。
(母は、私の能力を見抜いてた)
そのことを、いまは確信を持って言えるのです。
「人を泣かせてはいけない」
「陰口を言ってはいけない」
「人に喜ばれることをしなさい」
それが両親のしつけでした。
両親は神界につかえる人間ではありませんでしたが、この3つのしけつは、図らずも魂の浄化を私に教えていたことになります。
そんな両親に育てられた私たち兄弟は、仲がよく、笑い声の絶えない幸せな日々を過ごすのです。
私は中学卒業すると、沼津市にある製紙工場に勤めることになります。
(次回へ続く)
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私たちの世代は、高校へ進学する女子は少なく、中学を卒業すると、近隣の工場へ就職しました。私の実家は中農家で、経済的には恵まれていましたが、中学を卒業すると働きに出るものが一般的だったのです。
実家から沼津まで電車で通っていましたが、ほどなくして製紙工場が倒産し、縫製工場に転職します。
それまで同様、電車で勤めに通うのですが、このころから画相だけでなく、霊聴が入るようになりるのです。
「今日の約束はやめるがよい。今日の相手は、そちにとって悪い人間である」
そんな声――指導霊の声が、しょっちゅう入ってくるのでした。
そんな娘時代をへて、私は結婚。
娘ふたりを授かりますが、ご縁に恵まれず、女手一つでふたりの娘を育てていくことになります。
ひと口に「育てる」と言いますが、正直、たいへんでした。
昼間は勤めに出て、夜は自宅で裁縫の内職です。内職も急ぎのときは夜なべし、一睡もしないで勤めに出ることもよくありました。
若かったのでしょう。いま思えば、倒れもせず、よく身体が持ったものだと、自分で感心するほどです。
しかし、過労は日増しに心の傷を広げていきました。
なぜ、こうまで私は苦労しなければならないのか。私は、こうして苦労を背負ったまま一生を終えるのか……。
人生の悩みにぶつかったとき、ご近所の方が見かねたのでしょう。心の支えになればと、地方のA教団を紹介されるのです。
A教団は、いまでは名前の知られた有名教団になりましたが、当時はまだ小さなものでした。
しかし、素晴らしい神さまでした。
(これだ! 私はここで救われる!)
私は心底――本当に心底から感激しました。
(教祖様に、とことんついて行こう)
そう決心したのでした。
これが、私が神界に足を踏み入れる第一歩となるのです。
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いったんやり始めたら全身全霊を打ち込む――それが私の性格です。
会長先生の教えに恥じないようにと必死に神学を学び、やがて人助けができるようになり、寝食を忘れて奔走しました。
信者さんたちに感謝され、喜ぶ顔を見るだけで私は幸せでした。ふたりの娘もすくすくと育っています。A教団に入信して10年が過ぎ、何千人もの人を救った私は、その神力が認められ、教団の幹部に抜擢されるのです。
ささやかな幸せかもしれませんが、私の人生は平穏に、そして充実した日々であったのです。
ところが、好事魔多し。
「この教えこそ、世界最高」
と信じて疑わなかった教団の会長先生が、こともあろうに女性に狂ってしまったのです。
前世の因縁です。
神さまにつかえ、色情因縁を断つべき立場の人が、自らその因縁に溺れてしまったのです。
あってはならないことですが、しかし、同時に因縁の怖さを思い知らされたことでもありました。
私は悩みました。
素晴らしい神さまであっただけに、私は離れることもできません。
(どうしたらいいのか……)
悶々と悩む日々がつづきます。
そんなある日のことです。
教団の幹部のひとりが、苦渋に満ちた顔で、
「神さまが降りなくなった」
と、うめくように言ったのです。
「あなたもですか」
と別のひとりが身を乗り出すと、居合わせた幹部たちが口々に、ご祈願が効かなくなったと不安を訴えました。
実は、私もそのひとりでした。
病人が治らないのです。
神のお怒りであることは、あきらかでした。
それが前世の因縁であれ、会長先生の女性問題によって神界の力が失われた教会は、もはや信仰の場ではありません。会長先生は自業自得としても、救われなくなった信者の方がお気の毒で、もうしわけなくて、私は教会の神の言葉を伝える者として、心で何度もお詫びしたのでした。
私は退会を決意しました。
驚き、慰留し、理由を問う会長先生に、私は、
「一身上の理由です」
とだけ告げ、教団を去ったのでした。
(次回へ続く)
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退会した私は、三島の自宅に引きこもりました。教団で私が救った信者たちが訪ねて来てくれます。
「教団ではなく、勝又先生に救っていただいたのです」
と、これまでどおり指導をお願いしますと言ってくれます。
涙が出るほど嬉しい言葉でしたが、しかし教団と無用の摩擦は避けなければなりません。私はともかくとして、信者さんたちに迷惑がかかってしまいます。
(どうすればいいのか……)
私は悩みに悩みました。
と言うのも、私自身が、宗教家としてどう歩んで行くべきか、五里霧中であったからです。
裁縫など内職で生計を何とか立てながら、今後の身の振り方について、悩む日々が続きます。
そんなある朝――忘れもしない昭和五十三年五月十八日の未明のことです。
「そちに将来のことを申す」
布団でまどろむ私に神さまから霊聴が入ったのです。
女神さまでした。
「我は皇神御之尊……、天照大神、天地在八百万の祖神なり」
とおっしゃりながら、金縛りになった私の心臓にやさしく手を当てて、
「そちは七色の虹をもって民衆を救え」
と、命じられたのです。
このとき、幼いときから見つづけてきた「七色の虹」の真の意味を、私は悟ったのでした。
眼がさめた私の寝間着は、汗でぐっしょり濡れていました。
夢のような、現実のような、なんとも不思議な気分でその日は過ごしました。
ところが翌朝も、さらにその翌朝も、結局、二週間もつづけて神さまが降りてきたではありませんか。
ただごとではありません。
怖くなった私は、叔父さんの家に駆け込こんだのです。
実は叔父さんは、神社庁に四十年も奉職した神官でした。
私の話を聞き終わった叔父さんは、「ウーン」とうなって腕を組んでから、
「たしか、それと同じような話が大阪であったと聞いたな」
と言いました。
「大阪で?」
「ああ。その人も神が降りたそうだ」
「それで?」
「断ったそうだが、そのあとで……」
「そのあとで?」
「命を……取られた」
「まあ!」
「だから、おまえもそういう運命にあるなら、すなおに従うがいいだろう。まして、おまえの家紋が三柏ではないか」
「三柏?」
「ああ、先祖が神に仕えた氏族ということだ。だから、おまえにはそういう先祖の糸があるのかもしれない」
叔父のこのひとことで、私は決心したのでした。
皇神御之尊が、天地在八百万の祖神ということは、神さまのなかでもっとも位が高いということです。そんな立派な神さまが私に降りてくださったのは、身に余る光栄ですが、それだけに、正直言って不安でした。
(私が教祖となって、人々を救え切れるのだろうか……)
自問し、悩み、私の出した結論は、
(神さま、よくわかりました。もし私が非力ゆえに人々が救えなかったとしたら、それは私を選んだ神さまの責任ですよ)
と、決心したのでした。
ところが、いざ人助けをはじめてみると、誇張でなく、来る人、来る人、みんな良くなって治ってしまうではありませんか。
(私は、神の使者としてこの世に使わされたのかもしれない……)
と、このとき初めて得心したのでした。
いま思えば夫婦運がなかったのも、苦労もすべて、私を神界に使わすための神さまのお計らいであったような気がしてなりません。
皇神会は、こうして誕生したのです。
(完)